昭和42年2月2日 朝の御理解
口ばっかり、思うばっかり、見かけばっかり、信心を頂かしてもろうて、只今頂きます様なことが自分の内容にあるとするなら、そういうところを改めていかなければいけない。
口ばっかり、思うばっかり、見かけばっかりと。口ではどんなことでも言える。思うちゃおりますけれどもなかなかでけませんとも良く言う。それではおかげにならん。
けれども何と申しますかね、神様の前にという意味で?色々思うことがある。
もう、これは親教会の五十年の記念祭を奉仕されまして、その翌日、いやその晩だったんでしょう、その晩の御祈念の時私、思ったんですね、あの時椛目から御神酒が一樽とそれから神饌用のがあったから、五、六十本お供えさしてもらった。お米がそれをわざわざ 大黒様の下敷きにしてある俵のようなわざわざこさえさせましてね、そしてあれで十俵。それから神饌ものの瓶缶詰は言うに及ばず、果物菓子類まで殆ど私おかげを頂きました。それからあの時には、御神具類は全部買いました。八足、三宝、ミス、畳替え、もう一切でした。
私が親教会の五十年祭の時におかげを頂いたんです。もうこれは私が大体念願だったんです昔からの。ですから、やはり本当にそういうおかげ頂きたいというてもおりました。けれどもやっぱりその十年なら十年の間もう大坪さんが言うばっかり、何も出来んと思うた人もずいぶんあったろうと思いますけれども私はおかげ頂いてからそれが実行することが出来た。まあ、その当時思うておったと言えば、それはずいぶんそりゃ料からいうとたった金額からいうとたくさんな金額をおかげ頂くことができた。そういうおかげを頂いてからのことでした。
私はあのときに、ま、これは私の実感だったもんですからそのことを言ったらみんなから笑われましたんですけれども。
私今日の五十年祭を奉仕させて頂きながら、私は次の記念祭のことを本気で考えたというか、みんなに笑われました。
けど私は本気で思うたんです。ね、私が九十三まで長生きのおかげを頂けばです、親教会の百年祭があるです。奉仕される、だからそれをほんとに本気で考えたんです。
今私は教師でもなからなければ、いうならばまだみんなから十何年前のことですから、ま、それこそ言うならば背中が痛いぐらいに後ろからいわば迫害視されとった時分でございますから。ね、お供えすればしたで言われ、せんならせんで言われるというということですから、けれど私は本気でそれを考えたんです。ね、思うたんです。
百年祭には本当に大徳の先生にならせて頂いて、私は例えば副祭主なら副祭主のお仕えさせて頂けるだけのです、おかげ頂きたいもんだなーというような思いを真からさせて頂きましたら、もうあの善導寺のお広前でどうにもできんごとの感激を頂きました。
これなんかがおったときがいう、口ばっかり思うばっかり、見掛けばっかりという中のいわゆる思うばっかりです。
かも分かりません。けどもですね、そんならそういうけなげな思いというものが、思われただけでも、あんたがそげん思うてくれただけでも私は、うれしい、そういうようなものでなかったかと私は思うですね。
よく申しましょうが、ほんとにあんたがもう・・・?ばかりいけませんちゅてから、あんたがもう思うてくれるだけでも私はうれしいて言う、神様もやっぱそうじゃなかっただろうか。
それはほんなことです。私は帰って御祈念をさせて頂きますときに、ほんとに昨日あたりはたいした記念祭だたな、と。
ああしてあんなに御用させて頂いてうれしい、有難かったんだからこれから私の手続き関係、私の久留米の親教会、それから福岡の教会、それから小倉の教会、記念祭たんびんにどうでもひとつどうでもこの勢いでお供えさせていただかせていただこうと思うたんです。
もうそしたら霊神様の、私は神様のほうでそのことを思うたらですね、霊神様のほうで、もうそれこそもうここいっぱい響き渡るおいさみ頂きました。
ね、ところがです、霊神様のほうでご挨拶、そのことを御礼申させて頂でございますからきよりましたらね、それこそ思うばっかりで結構だと言うようなことを頂きました。
私が例えば50年祭の前の40年祭のとき、私は引き揚げてまもなくであった。
40年の記念祭のときに、あの当時はほんとにそれは記念祭のですね、計画を立てるのに一万円あればでけたんですよ。私が引き揚げて帰った当時。翌年。
それで一年前にみんな集まられて、私は末席を汚してからその一年後に仕えられる40年の記念祭をどう仕えられるかというときに計上されたのが一万円でした。
その一万円の金の、銘銘に千円づつおかげ頂いても結構できるということでしたけれど、だーれもですね、それを具体的に発言をする人がなかったです。
けれども私はほんとに切実に思うてから、私はそれを親先生にお届けさして頂きました。まあ、今日私は本当に残念でした。沢山並んでおられるけれどもね、私は総代でも役員でもなかったんですけれども、どうぞ今日を境に私はこれから働かせていただきますその収入、そのとき家族のものが最低の生活させて頂いて、あまっただけの浄財は全部記念祭のために使わせていただきますから、一年間のことを私は願うた。
そのときにやはり一年間、一万円不思議なおかげを頂きまして、おかげ頂くことができた
。
いつも私申します、どうしてもおかげ頂けないから山に登って、山であのお夢を頂いた。お滝場でお夢を頂いたと言うあの話があの40年祭のそのときの話でございました。
ね、それも余談ですから、あの話皆さんも何べんも聞いておられるから申しませんですけれども、ね、ほんとにそう思うたことをお取次ぎを頂いてお願いをさせて頂いく、いや思うたことを言うた。そして一年目にはそれが実現が出来た。
ところがどうでしょうか。ね、口ばっかり思うばっかり、見掛けばっかりで終わってしまうと言うようなことでは、だから相済まんことですね。
それでは自分自身がおかげを受けられないですね。
お道の信心は有言実行だと言われております。普通は無言実行と申しますですね。お道の信心では有言実行だと。自分がおかげを受けてきたこと、それを実意丁寧に人に伝えていくのが神への御礼と仰るですから、どうしても物言わなきゃできんのです。神の御礼にならんのです。自分がおかげを受けてきたことを人に実意丁寧に伝えるのが神への御礼じゃと。しかもそれが神になるのぞとまで仰っておられます。それが神になるのぞ。一人助ければ一人の神。十人助ければ十人の神だと。ために自分自身が助からなければいけん。自分が出来ません・・?言うちから、と例えば人はいうかもしれんけれども、要は切実に思うたことだと、ね、それを私は発表してもなからなければ、お取次ぎを頂いてそのことをお願いのために私はおかげを頂いた。
そして私ども時々とっぴなことを思うことがある、
ね、それこそその日暮らしをしながらです、今度の御造営に百万円どうぞおかげを頂かせてくださいと言うようなお届けをした人があります。
おそらく百万円の宝くじでも買おうと思うたのかもしれませんがね。まあけなげなことです、いうなら。自分のその日暮がやっとかっとのおかげを頂いておりながら、百万円のおかげを頂きたい。ね、なるほど本気でそういうおかげを頂きたいと精進が努力が出来て初めてそれが尊いのです。
いかに思うてた、けども先ほども申しますように、私が手続き、親教会親教会に記念祭に必ずひとつ、もうあの今日の御大祭を仕えてあんなに有難かったんだから、ね、これを・・?するぐらいのお供えはどこででもさせていただこうと思うた。そのそれをいやほんとに、これではほんとににあがりもんじゃあると例えば思ったかも知れんです。
ね、けれどもいうならあんたが思ってくれただけでも有難いと神様がおいさみを持ってお知らせ下さったように感ずる。そしてそれは実行できんというのじゃ、そういうではない意味のことを頂かして頂いて、もちろんその場限りのものでございましたけれども、一生懸命の思いだったら、思いだけでも神様には通うということ。
ね、それが発表出来んときには、もういよいよ私は元気な心がなからなければ、発表できないということ。
そういよいよ実行できんというきに私はお徳を受けると思うです。自分でそう思うです。
これは私の青年時代のまだ少年、か、少年との相中だったと思うんです。あの当時にあの善導寺の総代をいていた岸先生が青年会長をしている時分でした。
あるあの青年会の発表会のときにとにかくね、自分はできんでもいいから発表しなさい。ね、私はもう明日から朝参りをしょうと思いよります、というて言うならまあ、ほんとは実行できんかもしれんけれども発表しなさい。発表しておる手前にです、その聞いておってもらえる人の前だけでも実行しなければおれんのですから、それだけおかげいただくよという意味のお話しを聞いたことがあって、なるほどねーと思うたことがあるです。
何十年前の話です。私は明日から朝参りができんごと、明日から私はこんな御用をさしていただこうと私は思いよりますというて発表の中にそれを織り交ぜて話させていただいたらです、それを聞いておった人の前だけでもそれを実行しなければ可笑しいです。それを実行するということはです、やはりおかげだからありがたいんだと。
今日皆さんにです、自分の信心の内容というものをです、いや、もうできもせんことを言うたっちゃおかしいこと、お取次ぎで出来んなら先生でん聞くばっかり、心には思うとりるばってん、まあ、そげな思い方では神様にはかよわないですね。
切実にほんとに思うたら、発表はできんでもお取次ぎぐらいは頂かな・・・?きゃいかんということ。
ね、それでもいい、口ばっかりに終わらずに、それを実行できることのために私はそれこそみんなの前でも発表しなきゃいけない。私はかく思う。そして発表したその手前にでも一生懸命ならなければおられない。
だから実行出来るようなおかげを受けられる。ね、おかげ頂かなければ言われんということはない。
私は、これは例えば私の善導寺の信徒時代のときにあっちこっちお話回りましたときに申しました。ね、私がおかげいただかんはずがない。
もし私が頂かんなら神様がどうか間違うてござる、と自分で言うくらいに私はある意味で一生懸命でしたから。今から考えてみるとがむしゃらな信心であったなと思います。
大したおいおかげいただかなかったはずだなと思います。けれどもそれはですね、あんたがおかげ頂かんならほんなこて、あんたがおかげ頂かんはずがなかがの、皆が言うて頂きよった。ぐらいにそれを信じさせてもらいよった。
昨日、末永さんがこんなお届けをしていました。こりゃまあ、余談ですけれどもですね、今久富繁雄さんがもうここ三四日現場にずっと泊まりにおい出られます。
繁雄さんひとりで行っておられますから、一人じゃやっぱかわいそうという気持ちからでしょうか、自分も修行と思うてでしょう、そりりゃもう先生布団で暖を取る、布団で温かみをとると言う、布団だけに頼ったちゃいけません。私はほんとにそれを体験させてもらいますと言うて言うておられます。もう末永さんなスッパッとあっちいったら寝巻きに着てから敷布団も何にも引かずに毛布一枚で休まれます、ち。驚いてしまいました。そいで私も薄い布団一枚で休ませて頂いたんですけれども、まずたまがったことはですね、足の先からずーっと身体がぬくもってくるち、ほんとに有難い、本気でその気になれば神様がおかげくださいますね、と言うてからあの繁雄さん話になっておられます。
ね、ところが末永さんのほうは昨日のお届け聞くと反対なんです。もうほかんところは温もるけれど足だけは凍りついたように冷たい。そのために眠られん。
で、足はもうこうあかぎれが切れて痛うございますから、どうぞおかげ頂きますようにとお届けがあった。
時に私は、私もあっち、今日男に人たちのような修行させてもらいよるときに、思いよりました。あの時分に自転車もなかった。私はここから善導寺まで、朝お水かかってからお参りさせて頂く、もう勿体島で私はしもやけはしますけれど、あかぎれが切れないたちなんです。けれどもね、あすこ一年はもうたまらがるごとあかぎれが切れました。足に。で私は下駄をはいてまいりました。私の足はもう血でぬるぬるになりました。善導寺まで行く間に、もうそれはあの勿体島に行くくらい、歩いていくまでぐらいは踏みたてられんとです、痛うして。
けどもあの辺まで歩きよりますとですね、もう又血は出ますけれども元気で歩いて行けれる、ていう時代があったことをずっと思い出させていただいて、ほんにあんなへんな修行させて頂きよったと思うてですね、さあ、そこが頑張らにゃいかん、痛いくらいなことじゃいかん、・・・?ふんだくってからがんばらんにゃいかんよというような思いでした。
ね、・・?なるです、私がおかげいただかんはずはない、もちろん私はです、人が目を見張るようなおかげは頂かなかったけれど、人が目を見張るような修行やらさして頂きよりましたもん。親先生も仰る、あんたが真似はできん、て親先生は仰りよりました。
ね、ですから人の真似のできん修行をさしてもらいよるから、人の真似のできんくらいなおかげを頂ける、私はこれ確信持っておった。
なぜそれを私が発表しよったかというとですね、それこそ私の身近にです、ね、いよいよさあ、明日はしようがない、もうお父さんお米は今夜ぎりですよと言われる様なときでもです、もう必ず最低のものではありましても、塩のないときには塩、お米のないときにはお米をです、もうお米がないときにはおにぎりご飯なっとん集まって来よったことだけは間違いないなかったですから。
なるほど神様がお生かし下さるんだなあーと,そういう体験は私ども日々の中にあったもんですから、これが進められ育っていくならです、おかげを頂けん筈はないと、私はそれをほんとに確信して、いわゆる私はいわばある人は大坪さん口ばっかりという人もあったかもしれんけれども私はそのことを声を大にしてから皆さんに聞いてもらいよった。
ね、私どもがです、ほんとにあの人は口ばっかりと、言うだけで終わってしまうような口ばっかりではもういよいよおかげ受けられません。
ね、けれど口ばかりも切実にこの自分に確信を持って、自分の心の中に真からそう思うて、その思いが私はほとばしるように言葉になって出てくるようなおかげ。そこに聞いてもらったてまえにでも一生懸命にならずにはおられんから実行できるようなおかげが受けられる。
そこに私はお徳の受けられる道があると。
今朝、御神前に座ってから一番口に頂くとが、はあ、これが今日のご理解だと思ったから皆さんに聞いていただいたんですけれども、ね、後は私の・・?つけたんですけれども頂きましたことがです、口ばっかり思うばっかり、見掛けばっかりと。椛目の御信者の中にただほんとに口ばっかりの人がおりゃせんだろうか、思うとるばってん、発表もできんくらいな思い方どんする人がおりゃせんだろうか、もちろんそれで実行できんはずはない。見かけばっかりで終えてしまうというような事ではです、おかげは受けられません。ね、力も受けられるはずもありません。どうぞ。